加養浩幸の生い立ち(その9)
千葉商業高校吹奏楽部に入部した加養少年。そこで待ちかまえていたのは、当然のごとく、厳しい練習と上下関係だった。
1年生の加養少年は当然下っ端。朝は5時20分の始発電車に乗り、熟睡をむさぼって30分。学校に到着してからは、まずは先輩の楽器、譜面、譜面台の準備に音楽室の掃除。先輩が到着してからの練習は、それは厳しかったようだ。
私は、当時の加養少年の先輩に当たる方を2名紹介してもらったことがあるが、お二人とも温厚で、優しそうな感じの方だった。それでも練習が厳しいというのは、部の持つ伝統がそうさせていたのだろう。
実は、加養少年が高校に通っていた3年間が、私にとって一番先生と疎遠な時期であり、高校時代の詳しいことはわからない。そんな中でも、加養少年の高校時代、2回だけ私の目の前で楽器を吹いたことがあった。その衝撃は忘れることができない。
1回目は、加養少年が高校1年生の冬。楽器を持ってふらっと中学校に遊びに来た時のことだ。中学生4人のトランペットのメンバーを一列に座らせてのタンギングの練習。最初は口で説明しながら教えていたが、しばらくすると当時珍しかったバックのマイトランペットを取り出し、吹きはじめた。
「ダブルタンギングでも、トリプルタンギングでも、発音が変わっちゃいけないよ。」
こう言って吹いて見せたのだ。確かにシングルで吹いているのと、全く変わらない。
「いやー、すげーもんだなあ、高校生にもなると、こんなことまでできるようになるんだ。」
と感心してみていたのを覚えている。(しかし、私はいまだにできない・・・。)
2回目は、加養少年が高校3年生の時、当時地元の大網に「大網ウィンドアンサンブル」という一般バンドがあり、私も団員だった。加養少年は高校のバンドが忙しく、高校時代はメンバーではなかったが、1回遊びに来たことがあった。
そこで、トランペットのメンバーと遊びで吹いたのがチャイコフスキー交響曲第6番悲愴のオケスタ。何よりも音色にこだわる加養少年のその音色は驚くばかりに柔らかく、「レコードと同じだ」と、いたく感動したものだった。
次回は「指揮者、加養のデビュー」です。
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