加養浩幸の生い立ち(その11)
【広沢昭博氏との出会い】
高校を卒業した後、一般の大学に進学した加養先生は、地元大網でアンサンブルを企画した。どうやら曲が先に決まったらしく、ガブリエリの「カンツォン第2番」。
しかしトランペットが一人足りない。
そんなとき、先生の1つ上の山田先輩が、「土気の先生で、元読響のトランペットだった人がいる。」という噂を耳にし、すぐさまアポ。
「やろうやろう!」と、意気投合したのが広沢昭博氏だった。
土気中学校吹奏楽部の創生期をつくった広沢先生。ここで、広沢先生について少し語っておこう。
広沢先生は、新潟出身。読響でトランペットを吹いていたんだから、幼少の頃から・・・と思ったら、トランペットを始めたのは、高校に入ってから。しかも大学進学直前まで、医者だか弁護士だかになるか、音大に行くか迷っていたというのだからこれまたビックリ。天は二物を与えていた。そう言ってしまえば簡単なことだろう。
先生の性格はというと、これまた変わっている。乗っていた車はジェミニ。タイヤはきれーに山がとれ、ツルツル。雨の日に走ろうものなら、スケート状態。床屋には行ったことがない。(切るのは奥さん)ようは、細かいことにはこだわらない性格。しかし頭は高速回転で回っている、そんな人だ。
そんな広沢先生と、加養先生が出会った。時に、昭和57年、秋。加養先生と出会ってなかったら、広沢先生は吹奏楽に目覚めなかったろう。
広沢先生と出会ってなかったら、加養先生は土気中に赴任することも、もしかしたら、指導者になることも、なかったかもしれない。そんなことを考えると、日本吹奏楽界の歴史を変える、極めて重要な「出会い」であったと思う。
アンサンブルの練習が始まると同時に、土気中吹奏楽部が少しずつ動き出した。
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