加養浩幸の生い立ち(その14)

かくして、廣澤先生、加養先生がタッグを組んではじめてのコンクールがやってきた。

ものの見事に変身を遂げた土気中学校吹奏楽部の演奏は、千葉県に衝撃を与えた。その演奏を聴いた誰もが土気中が代表の座を射止めると確信していた。

しかし、当時千葉県代表になれるのは2校。その2校は市川一中と法田中の2校、土気中は次点となり、県代表の夢は破れた。

結果発表の後、土気中の子達は文字通り泣き崩れていた。立っていられず、壁にもたれかかって何人もが泣いていた・・・・。

そのコンクールが終わって数ヵ月後、加養先生が廣澤先生宅を訪れ、ある約束を交わす。その約束は

「自由曲は誰もやったことのない難曲にする。課題曲も4曲のうち一番難しい曲にする。」

というものだった。

その結果、決まった曲は課題曲が「変容-断章」、自由曲がF.シュミットの「ディオニソスの祭」・・・・

「ディオニソスの祭」は銚子商業が名演を聴かせた難曲中の難曲、それを中学生が演奏することなんて日本中の誰も考え付かなかっただろう。